フラナガン神父 と 神戸少年の町

エドワード・J・フラナガン。(1886年7月13日-1948年5月15日)

1886年にアイルランドに生まれ、18歳で渡米。
その後、神学校を卒業し、1917年、ネブラスカ州オハマにて職者の活動を開始。
彼はそこで貧困の中にあり非行に走る少年たちと出会い、その年の12月、個人で$ 90の借り入れを行い、男の子のための「フラナガン神父の子どもの家」(Father Flanagan’s Home for Boys)を始める。
フラナガン神父は、人種や宗教の違いにとらわれず、すべての男の子を歓迎。次の春を迎える頃には、子どもの家は100人の少年が自宅で生活するまでになった。

1921年。フラナガン神父はオマハの郊外にあったオーバールックファームを購入し、そこに「子どもの家」を移転。次第に子どもの家は『ボーイズタウン』として知られるようになる。

1930年代には、少年たちの為の何百もの学校、寮、管理棟がある村に成長。少年たちは、少年全員の直接選挙により町長、議会や委員等を選ぶという「自治プログラム」を実施。1936年、ついにボーイズタウンはネブラスカ州公認の村となった。

参考資料

神林 宏和(1975) 「E. J.フラナガン」
BOYS TOWN WEB

第二次世界大戦下

中国での戦火に参加していた 中田 稔氏。(のちの初代神戸少年の町施設長)
戦火によって日本軍が生んだ中国の戦災孤児を、その現場で目の当たりする。

戦後

日本引き上げ後、中田氏は結婚、子を授かる。しかしその子が9歳の頃、赤痢を患い、死別。

昭和22年、中田氏 洗礼を受ける。

フラナガン神父の来日

同じ年、連合軍最高司令部(GHQ)/PHWは「世界的に著名で、児童プログラムの指導者と認められる人物が、日本の浮浪児問題のために来日することは不可欠である」とし、その人物としてフラナガンに白羽の矢を立て、フラナガンの来日が決定。
また、来日後の任務として、フラナガン神父には以下の4項目が通知された。
「①児童福祉・施設保護・訓練の顧問として活動すること。②棄児や孤児の保護に重点を置きながら、施設の組織化と運営について日本政府に助言すること。③浮浪児の保護に取り組む公私団体に対して、一般の関心及び支援を発展させるように援助すること。④地方の児童保護問題に対する地域社会の関心を組織化するように援助すること。」

4/23 フラナガン神父が日本を訪れる。
4/28~5/4 近畿を訪れる。(5/3 神戸を訪れる。)
その道中、フラナガン神父は佐々木鉄治神父に「少年の町」創設をすすめられる。

 フラナガン神父に感化された佐々木鉄治神父。E・ダントン神父らと様々な策を巡らせていた頃、カトリックの活動を行う中で中田氏と出会う。カトリックの活動をともにする中で佐々木鉄治神父が「神戸に戦災孤児の施設を作りたい」と中田氏に協力を求めた。当時、日本砂鉄高砂工場の労働組合委員長をしていた中田氏であったが、戦争で生まれた戦災孤児、戦争の被害者である子どもたちへの想いが募っていた。

中田氏は進駐軍が接収していた元産業報国会の建物を施設用地に払い下げてもらえるようによう、E・ダントン神父とともにGHQに直談判。「デモクラシー」と「カトリック」をしつこく強調し、なんとか250万円で契約が成立。

昭和23年2月12日 神戸少年の町を設立

最初の孤児二人を迎え入れたのは、昭和23年2月21日。
中田が「腹減っているか」と問うと、三人ともコクリとうなずいた。
4月8人、6月23人、8月31人…。入所児は増え続けた。

参考資料

1989/8/23朝日新聞「ボーイズタウン 孤児たちの戦後」

フラナガンの来日と占領期児童福祉政策
 一政策立案過程と地方自治体の対応を中心に-
 岩永公成岩永公成 (東京都立大学大学院)